Kayōkyokuとは
1920年代から1980年代にかけて日本で作られた、大衆的な歌謡曲の総称である。音楽の土台は西洋の和音と曲の形に基づくが、メロディーには日本ならではの音の感覚が深く入り込んでいる。とりわけ、7音音階から第四音と第七音を抜いたヨナ抜
1920年代から1980年代にかけて日本で作られた、大衆的な歌謡曲の総称である。音楽の土台は西洋の和音と曲の形に基づくが、メロディーには日本ならではの音の感覚が深く入り込んでいる。とりわけ、7音音階から第四音と第七音を抜いたヨナ抜き音階が多用され、これによって西洋の楽曲形式でありながら日本的に響くメロディーが生まれた。編曲は時代によって大きく変わり、戦前は小編成の楽団、戦後は大人数の管弦楽、のちには電気楽器も加わり、戦後以降は弦楽合奏による情感の演出が多く用いられた。曲の組み立てははっきりしていて、導入、歌の部分、そして最も強く印象づける繰り返し部分という流れを持ち、最後の繰り返しの前に転調して感情の頂点を作る手法が定型となっている。テンポは中庸で、三連符を感じさせる跳ねた刻みや、行進曲風の2拍子も多い。歌は感情を込めてのびやかに歌い上げる形が基本で、音を細かく震わせる技法が重視される。歌詞は恋愛、別れ、望郷、酒、そして時代の空気を映す社会的な情景を扱い、七五調に近い日本語の韻律が意識される。作詞家、作曲家、編曲家、歌手が分業する制作体制が確立していた点も特徴である。
成り立ち
流行歌としての起点は1910年代である。1914年に舞台女優の松井須磨子が歌った楽曲が広く流行し、続いて1920年代後半、レコードという媒体が普及したことで、歌が全国規模で共有される時代が始まった。1927年に外資系レコード会社の日本法人が相次いで設立・提携し、1930年代には専属の作曲家と歌手を抱える体制が整う。この時期に古賀政男が確立した、短調で哀愁を帯びた旋律の様式は、以後長くこの分野の一つのお手本となった。一方、服部良一はジャズやラテン音楽の表現を積極的に取り入れ、より軽快で都会的な方向を切り開く。戦時中は歌の内容が国家によって統制され、戦意高揚のための楽曲が量産された。戦後の転換は劇的だった。1947年、服部良一が書き笠置シヅ子が歌った楽曲は、跳ねるリズムと解放的な歌唱によって、焼け跡の空気を一変させたと語られる。1949年に12歳で「悲しき口笛」が大ヒットした美空ひばりは、以後40年にわたり国民的な歌手であり続け、この分野の象徴となった。1951年に始まった歌合戦(当初は正月の放送で、1953年末から大晦日の放送となった)は、この音楽を国民的な行事へと組み込む。1961年に発表された坂本九の楽曲は、1963年にアメリカで一位を獲得するという、日本語の楽曲として初めての成果を挙げ、これは現在も日本語の楽曲としては唯一の記録である。1960年代後半からは筒美京平が膨大な数の楽曲を書き、作詞家の阿久悠とともに、洗練された歌謡曲の全盛期を作った。1970年代から1980年代にかけては、テレビの歌謡番組が視聴率を競い、順位を発表する形式の番組が国民的な関心を集める。しかし1980年代末以降、この呼称は急速に使われなくなった。放送局が用い始めた新しい呼称が定着し、若い世代が自分たちの音楽を別の名で呼ぶようになったためである。呼称の交代は、制作体制の変化とも重なっていた。
代表曲
- いい日旅立ち (山口百恵)
- 上を向いて歩こう (坂本九)
- 赤いスイートピー (松田聖子)
- アカシアの雨がやむとき (西田佐知子)
- 人形の家 (弘田三枝子)
- UFO (ピンク・レディー)
- 伊勢佐木町ブルース (青江三奈)
- 悲しき口笛 (美空ひばり)
- 嵐を呼ぶ男 (石原裕次郎)
- ウナ・セラ・ディ東京 (ザ・ピーナッツ)
ルーツ(影響を受けたジャンル)
Pop
影響を与えたジャンル
Pop、 J-POP、 Enka、 Mood Kayō、 Group Sounds、 Trot
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