Taarab(タアラブ)とは
東アフリカのスワヒリ海岸、とりわけザンジバル島を中心に発展した、アラブとインドとアフリカの要素が融合した歌謡である。初期は4〜5人ほどの小編成だったが、のちに大編成になった。古典的な形では、ヴァイオリンの群、アラブの撥弦楽器である
東アフリカのスワヒリ海岸、とりわけザンジバル島を中心に発展した、アラブとインドとアフリカの要素が融合した歌謡である。初期は4〜5人ほどの小編成だったが、のちに大編成になった。古典的な形では、ヴァイオリンの群、アラブの撥弦楽器であるウード、箱型の撥弦楽器であるカーヌーン、手風琴、そして各種の打楽器で構成される。メロディーの土台はアラブ音楽の旋法の仕組みであるマカームに基づいており、西洋の平均律には存在しない微分音が用いられるが、後年のザンジバルの曲では四分音を含まないマカームが好まれる傾向がある。ヴァイオリンの群がこの旋法を斉奏し、歌のメロディーをなぞって厚みを作る。リズムはアラブ由来の打楽器の型を土台としつつ、スワヒリ海岸の拍の感覚が加わって独自の揺れを持つ。テンポは中庸で、古典的なタアラブは座って聴く音楽だが、女性のタアラブや現代のタアラブは踊りを伴う。歌い方は細かい飾りを多く使い、長い音を細かく揺らす技法が重視される。現在はスワヒリ語が主だが、初期や一部ではアラビア語で歌われた。歌詞がこの音楽の核心をなし、詩としての完成度が厳しく問われる。恋愛を主題としながら、比喩と掛け言葉を幾重にも重ね、表面上の意味と裏の意味を持たせる。婚礼の場で歌われる際には、特定の相手への当てこすりを詩に忍ばせる慣習があり、聴衆はそれを読み解くことを楽しむ。
成り立ち
ザンジバルは長くインド洋交易の要衝であり、アラビア半島、ペルシア、インド、そしてアフリカ内陸を結ぶ結び目だった。19世紀にはオマーンのスルタンが首都をこの島に移し、丁子の栽培と奴隷交易によって繁栄する。この多層的な文化環境が音楽の土台になっている。19世紀後半、スルタン・バルガシュ・ビン・サイード(在位1870〜1888年)の時代に宮廷で定着したと伝えられる。伝承では、バルガシュが青年Mohamed Ibrahimをカイロに送ってカーヌーンを学ばせ、帰国後に宮廷の楽団を作らせた。エジプトの楽団も招いたとされる。ただしこれは唯一の起源説ではない。名称はアラビア語で音楽による喜びや陶酔を意味する語に由来する。20世紀初頭に決定的な役割を果たしたのがシティ・ビンティ・サアドである。奴隷の家系に生まれた彼女は、それまで男性のものだったこの音楽に女性として参入し、さらにスワヒリ語で歌い、録音を広く流通させて大衆化した。これによって音楽は宮廷の教養から民衆のものへ変わる。彼女は1928年にインドのボンベイで録音を行い、東アフリカで最初期の商業録音を残した人物となった。独立後の1964年、ザンジバル革命によってアラブ系支配層が打倒され、多数のアラブ系住民が殺害または追放される。この激変は音楽にも影響を与えたが、様式そのものは生き残った。女性の楽団は、1930年代末に広がったとする説と、1960年代に最初の楽団が結成されたとする説がある。婚礼の場で歌われる辛辣で直接的な内容の詩は「mipasho」と呼ばれる。女性たちによるタアラブはタアラブ・ヤ・ワナワケと呼ばれ、女性たちが公然と不満や皮肉を表明する場として機能した。1990年代以降は電子楽器を用いた高速の派生が生まれ、若い世代に受け入れられている。伝統的な様式は現在も婚礼と祝祭に不可欠なものとして続いている。
代表曲
- Kijiti (Bi Kidude)
- Mapenzi Matamu (Culture Musical Club)
- Muhogo wa Jang'ombe (Bi Kidude)
- Jipeleleze (Culture Musical Club)
- Sibadili (Culture Musical Club)
- Nimechoka kulima (Zanzibara)
- Chozi Lanitoka (Shakila)
- Niyeye (Culture Musical Club)
- Umeniita Azizi (Culture Musical Club)
- Hasidi (Ahmed Bin Brek)
ルーツ(影響を受けたジャンル)
Ghazal、 Bollywood、 Soukous、 Highlife
影響を与えたジャンル
Soukous、 Highlife、 Afropop
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